Professional's Eyes
スタイルのある暮らし
大阪の第一線で活躍する方々と一緒に、生活を豊かにする視点、もの選びのコツに迫ります。館内の注目アイテム、心斎橋のお気に入りスポットをご紹介。心地よい暮らし、大阪のシビックプライドを求めて。
ARCHIVES大阪にゆかりのあるゲストを迎え、その人の視点やライフスタイルを紹介する「PROFESSIONAL‘S EYES」。今回は新春スペシャル版として、1月17日(水)→23日(火)に、大丸心斎橋店本館8階の「アールグロリュー ギャラリー オブ オーサカ」で個展を開催するコシノヒロコさんが登場。ファッションデザイナー、アーティストとして世界的に活躍するヒロコさんが絵画作品を創作するアトリエとギャラリーを訪れ、アートやファッションについて話をうかがいました。
コシノヒロコさんの作品を展示する「KHギャラリー芦屋」、絵を描くアトリエがあるのは兵庫県芦屋市奥池町。ふだんは東京で仕事をして暮らすヒロコさんが、週末には創作のためにここへ帰ってきます。
「東京からこちらに帰ってくると、本当に自然がいっぱいですから、こういう環境で絵を描いています。東京へ行くとやっぱり洋服モードになりますから、人間って環境によって自分の行動が変わってきますよね」
六甲山の中腹に広がる緑豊かな場所で、もともと住まいとして生活をしていた建物の中でヒロコさんに話をうかがいます。
「この窓から見る景色はとてもきれいなんですよ。これだけの自然が一望できる場所というのはなかなかない。この松がすごいですよね。右の方向にかなり傾いているけど、よく折れないと思うんですよね。松の上にポーンと月が出ると、それは美しいですよ」
大きな窓から自然を愛でることができる建物が、ヒロコさんの自宅として建てられたのが1981年。設計をしたのは世界的に活躍する建築家・安藤忠雄さんです。安藤さんといえば、世にその名を知らしめるきっかけとなった「住吉の長屋」。この建築で1979年の日本建築学会賞を受賞したばかりの頃に、コシノヒロコ邸が完成したことになります。
「その頃の安藤さんは全くの無名。私の家の建築のデザインをしている最中に賞をとって。それから爆発的に有名になりました。私の家が完成したときも、メディアや建築関係の人など、いろんな人がだいたい1日200人ぐらい来ていて。建築を学ぶ学生なんかがウロウロしていて、危なっかしくてしょうがない(笑)。でもお茶ぐらいは出さないといけないでしょ。うちのお手伝いさんが『これだけ人が来るんだったら、玄関に御賽銭箱を置きはったらどうですか。コーヒー代稼げますよ』って(笑)」
それにしても、当時全く無名だったという安藤忠雄さんに自邸の設計を依頼するとは、どのような関係性があったのでしょうか?
「私は、結構昔から友達なんですよ。1970年代の前半ぐらい、グラフィックデザイナーの早川良雄先生のお弟子さんの山田崇雄さんのところにみんなで集まってはお酒を飲んでワイワイと、10日に一度ぐらいパーティをやってたんですよ。そこには安藤さんもいるし、私もいる。ファッション関係は私だけでしたけど、ほかはグラフィックデザインや建築業界、音楽関係の方などいろんなジャンルの方が集まっていました」
そんな頃、安藤忠雄さんが、「住吉の長屋」に着手する前に、帝塚山に個人宅を建てていたそう。それをぜひ見てほしいと言われたヒロコさんは、建築好きということもあって見に行きます。
「非常に小さかったんですけど、とてもユニークなんですよ。このとき、将来家を建てるとしたら安藤さんに建ててほしいと言ったら、すごく彼が喜んで。なんとなくその気になっちゃって、土地を探し始めて。奥池町は、海と山がすごく近くて、都会も近く、東京にも行きやすいし、いろんな条件がいい。自然がいっぱいだけど洗練もされてるし。ご縁があって土地を買うことができて。安藤さんに土地を見てもらったら、『この土地は素晴らしい。この傾斜は建築するのにすごく良い。建てよう建てよう』となって。建てることになったんですけど、お金をどうするのよ、と。お金がないのよ。銀行で借りて、なんとか工面して建ち上げたんですが、20年間ローンでもう大変(笑)」
ヒロコさんと安藤さんの素敵な出会いで誕生した奥池町の住居は、2013年にギャラリーとして生まれ変わり、アート作品が展示されています。大丸心斎橋店での個展にも出展が予定される作品をヒロコさんに案内してもらいました。まずは、元寝室として利用されていたアールが印象的な部屋に展示されていた作品。
ヒロコさんはこの作品を描くとき、73cm角のキャンバスをベースに、それをつないでいくという手法をとっています。4枚つなぎの作品が多いそうですが、この部屋に展示されているのは『WORK #2422』、『WORK #2423』、『WORK #2424』、『WORK #2425』の24枚からなる大作です。
「ここに地球が描かれてますでしょ。えらいことになってる地球を守ろうとしていて、ここにコロナみたいなものがあったり。そういうものを描きながら、だんだんいろんなものが現れてきた」
右端の6枚と左端の6枚では、色のイメージがずいぶん変わっていったそうです。
「今度描くときは、その連なりに美しいグラデーションを感じるとか。これからずっと続けていくために、このイメージを消化しながら次のセクションを描かなきゃなと思っているんです。その辺は頭を働かさないといけないかな。あまり働かせるのは好きじゃないんだけど(笑)」
こちらの連作は、ファッションブランド「HIROKO KOSHINO」の2023年春夏物コレクションのインスピレーションの源にもなっています。
「ファッションについて考えてみると、まずテキスタイルデザインのイメージをシーズン前につくります。いわゆるテーマ的なものがあって、そこからイメージをつくり、フォルムをつくり、色をつくっていく。私の場合は、絵を描いていることが次のコレクションをつくる土台になってるんですね。だからやっぱり常に絵を描いていないと、次のファッションは生まれてこないんですよ」
スタッフと会議して進めるというよりは、ヒロコさんの中から本質的に出てきたものをチームに理解してもらいスタートするのが「HIROKO KOSHINO」の服づくり。そのきっかけとなるのが、ヒロコさんが描くアートです。
「絵を見たスタッフの感じ方が皆それぞれ違うので、それがまた面白くって。これはこうよ、この通りにしなさいと命令してやらせるのは面白くない。みんなが何を感じるかによって、私はこんなふうに感じるというのを、『ふーん、なるほどね、これを見ながらそんなことを感じたんだ』『あー、それいいじゃない。じゃあやろうよ』、という工程がとても大切ですね」
この作品をこれからもどんどん描きためていって、将来的には、展覧会の会場の天井から壁までを埋め尽くしてみたいというヒロコさん。
「全部バラバラにしても飾れるし、まとめると全部つながっている。大丸心斎橋店の展覧会でも、いいとこ取りで一部展示してもいいかもしれないし、12枚か24枚ぐらいで、バーンと飾ってもいいんじゃないかしら」
「これはうちのワンちゃんの眼なの。すごいでしょ。ずっと見つめている感じでしょ。ちょっといろいろ貼ってみて、全体を見ながら構成していくんです。こういうのはもう子どもの気持ちになって創ってますね」
そう言ってヒロコさんが解説してくれたのは『WORK #2485』。やはり「KHギャラリー芦屋」に展示されていた作品で、写真なども組み入れたコラージュ作品です。
「コラージュの作品は、これからもう少し増やしたいなと思っています。今つくっている作品は、英字の切り抜きなどを入れて洋風の作品になっているので、日本の古い墨絵をコラージュするのもやってみたいなと思っていて」
とても自由で独創的な作品を多数クリエイトしているヒロコさん。ファッションデザイナーとして活躍したあと、アーティストとしても活動し始めたという印象があるかもしれませんが、実は幼少期からその才能は存分に発揮されていました。
「もう子どもの頃から絵は描いていて。最初のきっかけは、おじいちゃんによく連れていってもらった歌舞伎から始まってるんですよ。それを見て、一幕一幕を家の前のアスファルトに白墨で描くんですよ。それを通行人が見て、上手いなあと言ってくれる。褒められて育ったというのが私かな」
粋人だったというお祖父様も、絵をあちこちに持っていっては「孫が描いたんやで。どうや上手いやろ」と褒めそやしたそうです。
「それで、私はもう絵描きになるって決めて、いろんな展覧会に出して賞をもらったりしていて。高校に入るときも、卒業後は東京か京都の芸大に入るつもりで進学コースを選択して勉強してたんですよ。勉強を徹底的にやらないと芸大には入れないと言われてたんで。それだけやっても先生が言うには1、2回は浪人しないと芸大には入れない。それで、うちの母が女の子やから浪人はさせたくないと」
名作の誉れ高いNHKの連続テレビ小説『カーネーション』のモデルとなった母・小篠綾子さん。大阪・岸和田市で「コシノ洋装店」を営んでいた綾子さんは、「画家になったところで、絵描きなんて貧乏人ばっかりだよ。絵を描くのはあきらめて、うちの跡取りなんだから、もうちょっと真剣に洋服のことを考えなさい」と言ったそうです。
「当時はまだデザイナーという言葉もなかった。その頃、中原淳一先生が絵も描き、洋服のデザインもして、『それいゆ』などの雑誌も発行する。それを見て、絵を描くこと、うちの跡を継ぐこと、2つのことが同時にやれると思って。デザインという世界をもっと徹底的に勉強したくて、文化服装学院に入りました」
東京にある文化服装学院に通うことになったヒロコさん。初めて親元から離れて一人で下宿していたせいか胃潰瘍になってしまい、とうとう6カ月休学することになってしまいます。
「休んでいる間、私は絵を徹底的に勉強するんだと、筆を使ってのスタイル画を描き始めました。最初の頃はもちろん下手くそでしたけど、1日30枚ぐらい半年びっしり描いたんですよ。そうすると筆を持ったら、私の手の先と一体になるような感覚で、どんなものでも自由に描けるようになった。お三味線でもピアノでもなんでもそうなんですけど、まだまだ細胞が若いときに、そういう難しいことを徹底的にやると天才的に上手くなるんですね。それができたのは病気のおかげ。病気になってなかったらこんなに絵は描けなかったでしょうね」
まさに災い転じて福となす。筆を使うことが得意になったヒロコさん、最初に本格的に絵を描き始めたのは水墨画からだそうです。
「水と筆との葛藤みたいな絵を描いてたんですよ。これがものすごく面白くて。それをひと通りやると、やはりファッションをやっているから色を使いたくなって。色をどんどんやっていくうちに今の作風になりました」
ギャラリーもそうですが、制作の場であるアトリエも壁面はコンクリート打ちっ放し。グレーの世界の中に絵を飾るとなると、水墨画が一番合うと思ったというヒロコさん。最初は黒一色の世界から、いろいろ実験して、ゴールドや赤を彩色する作品も増えていきます。
洋服のデザインをして世界的に活躍しているヒロコさんですが、名取である三味線や長唄など、日本文化の芸事にも長く親しんでいます。日本に古くからある水墨画を始めたというのも、そのあたりが少し影響しているのかもしれません。
「洋服でも、メキシコや北欧、ウズベキスタンなどへの旅とか、音楽からインスパイアされるものもありますが、日本的なコンセプトのものも多い。たとえば折り紙から発想されるデザイン。これは日本の着物にも通じるものがあって。着物って1枚の布を折りたたんで、着るときに立体にしていく。この美の原点はどこにあるかというとフラットな紙文化からなんですよ」
折り紙のような遊びも身に付けるものも、立体ではなく平面なのが日本文化。ヨーロッパやアメリカでは立体から入る構造が多く、クリエーションの原点が全然違うとヒロコさんは言います。
「だから私は徹底的に日本の紙文化を勉強したんですよ。そこからくるアイデンティティを洋服の中に織り込んで、日本人が持っている本質的なものをどう現代の洋服に生かしていくか、これがすごく大事なこと。絵画でもちょっとそういうところがあるんですね、日本の筆の運びが油彩やアクリル画の中にいっぱいあるんですよ」
その想いは未来も見据えて、若い人たちへの期待にもつながっていきます。
「次の世代の人たちが、昔からある日本のよさを知らないで育つというのはもったいなさすぎる。本当に良いものがたくさんあるにもかかわらず。それをどのように伝えていくか、私たちのような立場の人間が本当にやらなきゃダメだと思っているわけ。日本の伝統的なものを全く無視して、新しいものをつくるというのはあり得ないと思うから。伝統と革新、この2つが非常に良いバランスでなければ文化レベルは低い。古いものもわかって新しいものをつくっていくという精神がなければ、ほんまもんじゃないの。ちょっと偉そうなことを言ってますけど(笑)」
今回、2024年の新春に、大丸心斎橋店で個展が開催されるということで、60年前の1964年に、心斎橋でオートクチュールアトリエをオープンさせたヒロコさんに、当時の心斎橋の街の思い出について聞きました。
「ヤマハの筋向いに心斎橋ロビーという建物があって。上階と下階に分かれていて、突き当たりに画材屋の『月光荘』があった。私の店は階段を上って最初のお店やったんですよ。私はオートクチュールで服を仕立てるので、生地を置いておいて、お客さんの注文を聞いて、その場でデザイン画を描いて、2回ぐらい仮縫いして洋服をつくって渡すんですけど、まだ20代なのにすごい仕事をしてましたね。」
ヤマハといえば、かつて長堀通りから心斎橋筋を少し南に下った場所にありました。その筋向いということは、大丸心斎橋店からもすぐ近くです。
「そうそう。だから大丸心斎橋店のオーダー部のデザイナーの方たちが、私のつくる服にすごく興味を持ってくれていたみたいですよ。私の洋服を着て大丸の中を歩いている人を見ると、『その洋服を見せてくれませんか』とか呼び止めてたらしい(笑)。当時は、その界隈にカメラマンとかインテリアデザイナーとかクリエイターの拠点が点在していて、何か声がかかればあっという間に集まっちゃうの。あっ、そうそう、1年に1回、それぞれのアイデアで仮装して心斎橋筋を練り歩いたりもね。みんなすごく面白い格好をしてましたよ」
芦屋の自宅の設計をした建築家・安藤忠雄さん、国際的プロダクトデザイナーの喜多俊之さんなど、その後も続く大阪のクリエイターたちとの交流は、この頃から芽生えていたようです。
「みなさん自分の個性というのを大事にしていて、誰かのモノマネ風のものをつくっているのがちょっとでも匂うとお互いに軽蔑してましたよね。だから絶対的にその人らしいものをつくらないと誰も信用しないし、もう友達から外されるみたいな。そういう面では、みんな仲はいいんだけど、そういうことに関しては厳しいんですよ。今から考えたら、みんなほんまもんだったということですよね」
人の模倣じゃなくて自分らしいクリエーションをするために、中途半端な気持ちじゃなくて真剣に仕事をする人が多かった当時の大阪は、とてもいい時代だったよう。でも個人的な生活はみんなグタグタだったとヒロコさんは笑います。
「私なんかもひどかったですよ。その頃ディスコが流行ったでしょ。毎晩遊びに行って朝まで踊ってました。スピーカーの横にいて踊っていると、だんだんフワーッとハイになってきて、それが気分よくてディスコに行くんですよ。仕事もやったけど寝ないで遊んでましたよ。体力があったのよね。今それをやれと言われても、とてもできない」
その頃は東京の銀座でも仕事をしていたヒロコさんですが、銀座よりも心斎橋の街が好きだったそうです。
「大阪の人って、結構感覚的なことをやってもパッとすぐ理解してくれるんですよ」
そんなクリエイティブな街、心斎橋での個展で、ヒロコさんは初めての試みを考えているそうです。それは作品のタイトル。ここまでいくつか作品を紹介してお気づきの方も多いと思いますが、ヒロコさんの作品のタイトルは、創作した順に番号がつけられています(もうすでに2400番台!)。
「実は、今まで考えたことなかったんですけど、今度の大丸心斎橋店の展覧会のときには、ちょっと面白いことをしようと思ってるのね。言葉遊びというか、たとえば『過ぎ去ったあの日の光』とか抽象的な言葉をつくってピッと作品につけるじゃない。そうすると自分の人生の中でそういったものを感じたことがある人は、ああ懐かしいな、この絵ってそれなんだ。家に飾っておいたら自分の人生の中でホッとする部分がこの中にあるんだなって、その絵に対して非常に親近感を持ってくれる可能性があるわけ」
数字が並ぶタイトルに言葉を添えることによって、作品がより観る人に寄り添っていきそうです。
「言葉自体は、とてもほんのりするような言葉を使いたいの。 “運命”とか、あんまりガチガチなのはやめようと。だから期待しておいてください。ちょっと素敵な雰囲気になると思うから。絵はとにかくすごくあるんで、どの絵を展示するかは考え中ですが、水墨画は最低限度たくさん出そうと思っていて。ああいう作風は、それこそ言葉を添えてあげるとイメージがしやすくなると思うしね」
これはとても素敵なご提案! 1月20日(土)には、「アールグロリュー ギャラリー オブ オーサカ」内でトークショーも開催されるということで、こちらも楽しみです。
「トークショーもあちこちでやってるんですけど、言うことが全部違ってくるのよ(笑)。大丸心斎橋店では、その日のお客様の顔を見ながら話すことを考えようと思ってますが、よく聞かれるのが、『自分に一番合う服をどう選べばいいか?』ということ。私にはこんなの似合わないとか、ネガティブな感覚からスタートする人が多いけど、なんで自分のことをもっと理解して可愛がらないのって思うわけ」
いろんな場面で話をして、一番共感してもらえるのは、もののとらえ方や考え方についての話だとヒロコさんは言います。
「自分のライフスタイルを持つこと。それによって、たとえば絵の選び方も変わってくるんですよ。どういう住まい方をしたいかという歴然とした自分のスタイルを持っていれば、迷う必要はなくて、『これじゃないとダメ』というのがあって当たり前だと思うんですよね。日本ではまだ少ないけど、外国、特にフランスの人なんかはそういうのをしっかり持ってる方が多い。自分の生活に何が必要なのかがよくわかっていると思います。だからおしゃれも自分の独特のスタイルを持つということが基本で、そこから始まらなきゃダメね。似合わないと思って最初から拒否する必要はないと思うし、着てみればものすごく似合うかもしれないし、その人風に着こなせばいい。独自のものができてくるきっかけは服ですよ。そこから変わってくる。自分の体に一番近い環境、これを徹底的に自分でクリアにすることで、そこから町や村、地球の環境を考えるようになってくる。洋服を大事にするということは、環境を大事にすることに通じているんですよ」
1937年大阪・岸和田生まれ。1961年文化服装学院を卒業後、銀座小松ストアー(現ギンザコマツ)ヤングレディースコーナー専属デザイナーに。1964年に大阪・心斎橋にオートクチュール・アトリエを開設。1978年にローマのアルタ・モーダに日本人として初めて参加。1981年に芦屋に安藤忠雄設計の自宅を建て、1982年からパリ・プレタポルテコレクションに参加。2001年芦屋にアトリエ、ギャラリー&ゲストハウス「SEMPER」が完成。2013年芦屋の自宅を改装し、「KHギャラリー芦屋」としてオープン。2017年にデザイナー60周年記念本『HIROKO KOSHINO it is as it is あるがまま なすがまま』を出版。2021年兵庫県立美術館にて特別展「コシノヒロコ展 EX・VISION TO THE FUTURE 未来へ」を開催し、日本空間デザイン賞2022の銀賞、日本サインデザイン賞の銅賞を受賞する。
写真/竹田俊吾 取材・文・編集/蔵均 WEBデザイン/唯木友裕(Thaichi) 編集・プロデュース/河邊里奈(EDIT LIFE)、松尾仁(EDIT LIFE)
大阪の第一線で活躍する方々と一緒に、生活を豊かにする視点、もの選びのコツに迫ります。館内の注目アイテム、心斎橋のお気に入りスポットをご紹介。心地よい暮らし、大阪のシビックプライドを求めて。
ARCHIVESProfessional's Eyes Vol.60
Professional's Eyes Vol.59